(ウォーキングC77-4)
大谷吉継の墓地から20分弱で次の陣地跡となる西軍宇喜多秀家の陣地跡に到着。今では神社になっていました。ここは良くも悪くも林に囲まれていて周りの状況を黙視することはできませんが、西軍では最大となる1万7千の軍勢でした。なお、敗戦後は久能山経由で八丈島に島流しの刑となったようです。
本陣跡から見える並木道です。戦後植えられたもの・・かな?
この並木道を抜けて僅か5分で次の目的地の旗が見えてきました。
道自体はややう回路していましたがそれでも宇喜多秀家陣地跡から10分で開戦地後に到着です。
ここにはキリシタン武将である小西行長(敗戦後は市中引き回しの上で打ち首)の陣地跡でもあります。そしてこの武将、関ケ原の戦いの約7年前に平壌まで足を延ばした国際派武将でもあったりします。
ここからは10月ですので秋の草花がキレイに風になびいている・・・向こうに西軍の総本山である石田三成陣地の旗が見えます。
開戦地であることを示す巨大な石柱が堂々と建てられています。
開戦地から約6分で今度は西軍島津義弘陣のあった場所に到着です。位置的には小早川秋秀の陣地からの東軍の陣地からも見えない場所にありました。
林の脇からは開戦地後を望むことができます。
ところでこの島津義弘隊(約3000)、関ケ原の戦いでどうしていたかというと・・・適当に戦って、東軍に向かって脱出し(あくまでも西軍の武将として)、無事薩摩に戻って晩年まで「戦後処理」されることなく生き抜いた・・・なるほど、人気の武将には武勇伝アリですね。
では、西軍の総本山へと進んでいきましょう。住宅地の中をくねくねと進んでいきます。
総本山まではもうすぐです。
ここではソバが栽培されていました。丁度黒い実をつけています。その後ろにあるのは決戦の地の旗です。
石田三成陣は笹尾山山頂というところにあります。登り方は2通りで正面からの階段道か脇からの登山道かとなります。ということで、脇の登山道から。
島津義弘陣跡から約13分で石田三成(敗戦後は逃亡を図るもつかまり、打ち首)陣に到着です。
展望台から見る関ケ原町内の様子です。右奥には小早川秀秋陣がありますので、ほぼこの中で関ケ原の戦いが行われたということになります。
では、陣地跡を後にして先を進みます。折角なのでソバ畑の様子をソバのみでお送りします。
三成陣からすぐのところに決戦の地の旗っと石柱がありました。
ここから見えるコスモスと石田三成陣跡。
さて、再び山のヘリに沿ってしばらく進むわけですが、こんな看板を発見。うーん、冬眠前の準備期間だし、出会ったら嫌だなぁ。
道自体はこんな感じでしっかりと整備はされていました。
元々、ここにある池が学習用途で整備されているので、それとも関連しているのでしょう。
池の脇を通り抜けると
野草生える空間に出ました。
ここにも池があるらしいのですが、枯れているのと立ち入り禁止の看板が建っていました。まさか、踏み抜くとどこまでも沈んでいく?
蝶が花に止まっていましたので一枚。
と戦国時代ウォーキングというよりもごくごく普通のハイキング気分でこの区間を通過。
決戦の地から約26分で次の跡地に到着です。